写真で見る ふるさと いまむかし

第12回  卒 業 式


@77年前の円田小卒業式。服装は学生服と和服とが半々。

 いよいよ3月。冬から春へと移り変わる節目の月であり、子供たちにとって、卒業のシーズンでもあります。今回は、卒業にまつわるさまざまな出来事のいまむかしを追いかけてみましょう。

 町に小学校ができたのは142年前(明治6年)でした。当時は義務教育制ではなかったため、就学率は30%程度でした。その上、家の都合で途中退学する子どもも多く、つつがなく卒業の日を迎えられる子どもはごく少数でした。
 小学校が義務教育化し、すべての子どもたちが卒業式を迎えることができるようになったのは114年前(明治34年)のことです。
 写真@は、77年前(昭和13年)の円田小学校尋常科の卒業記念写真です。男子ばかりで女子がいませんが、当時3年生以上は男女別々のクラスで学ぶことになっていたからです。現在のように男女共学になったのは太平洋戦争後の68年前(昭和22年)からです。

 国中に深い傷跡を残した太平洋戦争は、当時の子どもたちの学校生活にも大きな影響を及ぼしていました。
 戦争末期になると、東京をはじめとした都市部の子どもたちは、空襲の難を逃れるため、地方に集団疎開しました。遠刈田も東京浅草の子供たち1284人を受け入れました。写真Aは、寄宿舎となった旅館の前で撮影した疎開児童たちの記念写真です。
 70年前(昭和20年)の3月10日、東京は大空襲に見舞われました。ちょうどその日、遠刈田の疎開児童のうち6年生が卒業のため帰京したのですが、空襲の大混乱で卒業式もないままになってしまいました。
 終戦から27年が経過した昭和47年3月、当時の6年生が集まって、当時できなかった卒業式を執り行いました。
 その時、「戦争のおかげでできずじまいだった修学旅行をやろう。行き先は疎開でお世話になった遠刈田にしよう」という話が持ち上がり、同年8月、当時の6年生とその家族、先生など134人による『28年遅れの修学旅行』が実現したのです。
 遠刈田の人々は地域を挙げて一行を歓迎し、盛大な交流会を催してもてなしたのです(写真B)。


B28年遅れの修学旅行。こけしをプレゼントしました

A雪が積もる中、宿の前で記念撮影する疎開児童


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